文字数:約688文字
幼いころ、山へドライブに行くと影を見た。木々の間に影が揺らめくのが見えるのだ。
私はそれを
『お母さんだ』
≪幻だ≫
【鬼だ】
と思った。
なぜ、それを「母」だと思い、「鬼」だと思ったのかよく覚えていない。
が、それらは同時に『幻』でもあった。
だから、誰にも言ったことはない。
「あそこにおかあさんが居る」なんて、言ったところで信じてもらえないという事も、分かっていた。
大抵は走る車の中から、木々の影に見える。
けれども、それらは時々、車から降りた後にも見えた。
でも、いつもは一定の距離の先に見えた。
一度だけ、近づいてきた影があった。
そこはキャンプ場で、いつもの影がちらほらと見え隠れしていた。
家族は少し先にいた。私はその場で、たくさんの荷物と一緒に座っていた。
ふっと振り返ると影が、いつもより近くにいた。
『おかあさんだ』
≪違う。幻だ≫
影が少しだけ動いたように見えた。ふわふわとこちらに近づく。
『おかあさんが来る』
≪違う。おかあさんはあっちに居る≫
「どうしたの?」
母が私の傍の荷物を手にして、そう聞いてきた。
「何でもない」
≪これがおかあさんだ≫
「あっちへ行こうか。荷物持って」
「うん」
私は荷物を手にして、家族の元へ行く。
振り返ると影は消えていた。
なぜ、あの影が『おかあさん』だったのか、自分でも分からない。
影は私に安心と不安を同時に沸き上がらせるものだった。
同時にたくさんの影がいる時もあれば、たった一つだけの時もあった。
それらが本当は何だったのか、私は
現実的に考えるのならば、ただの幻や、不安の象徴となるのだろう。
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